他者を感じる社会学 差別から考える
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発行年月 : 2020年9月
出版社 : 筑摩書房
差別の実態がどうなっているか、というよりは色々な差別の状況においてただ傍観してしまう自分のような人間だったり、放置している社会にも、いかに当事者性があるのか気づくべきだ、みたいな問題提起の内容で、それらを考えるきっかけにはちょうどよい本だと思う。
また、ちくまプリマー新書ということで全体的に専門用語もほとんどなく、平易な文章で読みやすかったほか、映画やドラマなどの描写も例としてたくさん挙げられているのだけど、そこで出てくるのが自分の好きな橋口亮輔の『ハッシュ!』やイ・チャンドンの『オアシス』などだったので個人的に納得度が高かった。 ちなみに紀伊国屋のKinoppyで読んだのだけど、本文のコピーが出来るんだけど字数制限があったりエラーも起きるので、却ってストレスがたまったかも知れない。
他者を感じない日常とは、他者を「人間」として認めない日常であり、もっと言えばさまざまな「ちがい」がある他者をそれ自体の存在として対等に向きあおうとしない日常と言えるでしょう。そしてそれはネット上の匿名の誹謗中傷という行為が象徴するように、平然と人(=他者)を差別し排除できる日常なのです。 (Kinoppy, 6/104)
私は、〈被差別─差別〉という二分法的見方は、差別を考えるうえでの基本だと考えています。 その理由ですが、まず第一に、この二分法的見方をあてはめることで、人は誰でもどちらかの側に分けられることになり、差別という問題とは一切関係ない人など誰もいないという、差別を考えるうえでの原理的かつ倫理的な主張を確認できるからです。ただこの主張を確認するからと言って、差別する側に分けられた私たちをすべて「差別者」だなどと考えてはいません。より正確に言えば、私たちが差別する側に分けられるとき、そこでは常に〝差別するあやうさ、差別してしまうあやうさ〟とどのように向きあえばいいのかという可能性が開かれているのです。 今一つの理由です。この見方は、〈被差別─差別〉と人間全体を二つの塊に分けるようにみえますが、実は目的は〝分けること〟にあるのではなく、被差別の立場を生きる人々や被差別の現実を、差別を考えるための中心であり原点として、つまり〝注目すべきもの〟として人々の塊全体から〝括りだす〟ことにあります。 (Kinoppy, 13/104)
むしろ「普通」の世界には、さまざまな「ちがい」をもった他者をめぐる思い込みや決めつけ、過剰な解釈など、歪められ、偏り、硬直した知や情緒が充満しており、こうした知や情緒を「あたりまえ」のものとして受容してしまう時、まさに私たちは「差別的日常」を生きているといえます。(...) 「普通であること」を見直すことから自らが思わず知らずはまり込んでしまっている差別する可能性を掘り起こし、自分にとってより気持ちのいい「普通」とは何かを考え直し、そこに向けて自分にとっての「普通」を作り替えていくこと、新しい「普通」を創造していくことこそ、「差別を考える」ことの核心に息づいています。(Kinoppy, 18/104)
さて、手元にある手塚の作品集には、出版社が書いた興味深い「あとがき」があります。すべて引用することはしませんが、概要はこうです。手塚治虫の作品の中には、その一部に人種差別や偏見につながる表現があると指摘されている。これらの作品が発表された当時、作者にはもちろん読者にも差別意識はなかったのだが、こうした描写を差別や偏見だと感じる人がいる以上、その声に真剣に耳を傾けるべきだ。著者の原作を尊重し、作品の底に流れるヒューマニズムを正しく伝えるべく、当時のままで作品を提示するが、読者は見落としがちな人種差別や偏見について、いっそうご理解を深めていただきたいと。(...) ただ私はあとがきにあるように当時著者や読者に差別意識があったか否かという人々の意識の次元だけで了解することには同意できません。 なぜ手塚はそうした表現を採用したのでしょうか。漫画はたとえ扱うのが難解なテーマであったとしても、誰にでも楽しめるものではないでしょうか。とすれば漫画には、誰がみてもすぐわかるような表現が必要となるでしょう。「みてわかる」とは、まさにサックスの言う支配的社会や文化が所有しているカテゴリーを用いることで円滑に達成できるのです。つまり手塚は、創意工夫で独自の表現を創造したことは確かですが、同時に当時支配的であった人種や民族の了解の仕方をそのまま踏襲していたと私は考えます。(Kinoppy, 27/104)
人間には「貴い」存在もないし、「賤しい」存在もありません。「貴い─賤しい」という人間の見方を認めるとすれば、例えば「家柄」や「血筋」といった人間の地位や場所、属性だけで評価するという〝偏った〟他者理解の仕方に私たちが順応してしまう〝危うさ〟が生じてしまいます。人間の多様な営みそれ自体を率直に評価したり、多様な考えや価値を持っている存在として人間を認めることは、他者理解の基本です。この基本を確認するためにも、私たちは「貴い─賤しい」という伝統的で因習的な人間の見方を廃棄すべきです。 (Kinoppy, 33/104)
二人のゲイが伝統的な性役割を分担し演じているから、ドラマが面白いのではありません。伝統的な性別分業では男性と女性に割り当てられる営みを、二人のゲイが各自の仕事や人格を大事にしながら、「適切に」分業し、必要があれば「適切に」協働しているところにドラマの本質的な面白さがあるのです。「適切さ」は、簡単には達成できません。だからこそ互いを思いやり、どうしたらうまく日常を乗り切れるのかを悩み、考え、試し、すれ違い、認め合うというやりとりが生じ、まさにこのやりとりこそ「ドラマ」と言えるでしょう。 (Kinoppy, 47/104)
ドラマ『きのう何食べた?』について
私たちに、あることが「できる」とします。そこで私たちは「できる」ということに価値を置き、それを前提とした基準を設けます。その結果支配的な社会や文化では、基準に従い「どれくらいできるか」によって人間が序列づけられ、「できない」人は最下層に位置づけられ、その社会から「外されて」いきます。 (Kinoppy, 53/104)
障害をもたない多くの人々のなかには、スポーツを頑張る人もいれば、楽しむ人もいます。スポーツなどしたくない人もいれば、したくてもできない人もいます。障害ある人々とパラスポーツとの関係も同じです。彼らのなかにも、頑張りたい人もいれば、適当に楽しみたい人もいますし、パラスポーツをやりたくてもできない人もいるのです。 つまり私たちは皆が皆、頑張っているわけでもないし、頑張り方の度合いも異なります。頑張らないでそれなりに生きている人もいれば、なんとか生きようと悩み苦しんでいる人もいます。多様な障害をもつ人も、一人一人異なる人間として、日常を生きているのです。 ところで私たちは、どのように考え感じることでパラスポーツの独創性を理解しているのでしょうか。言い方を変えれば、パラスポーツが独創的であると私たちが了解する背後にどのような考え方や感じ方が息づいているのでしょうか。 それは、障害があることで「できない」とされている人々が私たちの想像や想定を超えて「できる」ことへの驚きなのです。私は先に障害者差別は能力差別だと書きました。「できない」とされる人々が「できる」姿をみて、驚き、その存在を認めるとすれば、やはりその考え方や感じ方は依然として、「できるかできないか」という能力主義的な見方に依拠していると言えるのではないでしょうか。私は、そこに〝危うさ〟を感じます。 (Kinoppy, 62~63/104)
カテゴリー化が持つ意味や力に進展がないとすれば、それはただ被差別の対象をまとめる言葉が新たに一つ増えただけ、ということになってしまうという危うさがあるのです。 (Kinoppy, 82/104)
人種や民族というカテゴリー化は、非難し、攻撃し排除し差別する対象を特定するためにだけ機能するのではありません。人種や民族というカテゴリーを用いて、ある人々を攻撃し排除するとしても、攻撃する側にいる人々は、例えば「フランス人」「アメリカ人」「日本人」であり、言わば〝対岸にいる私たち〟としてともに自分たちの利益を守るのが当然だと、ゆるやかに〝共感〟を抱いていくのです。「自分だけが特別に中国人を攻撃し排除しているのではない、日本人であれば誰であれ、自分たちの安全を確保するためにも、当然、同じように思うし感じるはずだし、感じるべきだ」と横浜中華街のレストランに届いた「中国人は日本から出ていけ」という匿名の手紙は主張しています。 (Kinoppy, 90/104)
例えば、政治家の差別発言を批判するマスメディアや評論家たちの姿も〝残念〟の極みと言えます。彼らは政治家が「差別発言」をすれば、取り上げ盛んに批判します。でも彼らが批判するのは、ネタとして「発言」が〝鮮度〟を保っているあいだだけです。(...) 発言の背後にある「決めつけ」や「思い込み」のどこがどのように問題であるのか、偏った知の背景に何があるのかなど、発言を手がかりに、より深くじっくりと「差別を考える」姿勢を感じることはありません。(...) 〝残念〟な状況に共通した、差別に対する構えがあります。それは、できるだけ迅速に差別という問題の当事者になることをやめたい、問題に関わることをやめたいという構えです。(...) 。それはまた、「してはならないもの」「許してはならないもの」として一般的で通俗的な倫理や道徳の次元で反差別を唱えながら、なんとしても自分の生活世界が差別という問題で侵されたくないし脅かされたくないという願いなのです。 (Kinoppy, 91~92/104)